前章では、クラシック音楽全般を念頭に置いて、音楽というものの表れ方にについて考えてきました。そしてここからは、私が個々の演奏等を聴く時のことを主に、音楽の現われについて考えてみたいと思います。ですから、前章では音楽能力と対比の上での一般的な音楽を扱ったのに対し、この章では具体的な音楽と対比の上での一般的な音楽を扱うことになります。
これまでの文章で散々[意味]とか価値とか意味などという言葉を濫用してきました。読んでいるうちに、おそらく頭が混乱してしまっているのではないかと思いますが、もう少し我慢して下さい。ここでは表現との関係で意味について考えてみたいと思います。
①音楽はものごとの伝達手段か
作曲家や演奏家と聴き手の間に、ある程度の共通のルールの存在を音楽は前提にしているということは前章でのべました。その際、言葉というものの構造と比較しながら、それを参照しつつ議論をすすめてきました。しかし、私が音楽を聴くということと、言葉を聞いたり話したりということは、根本的に違うもののはずのように思います。音楽は言葉と似たような点が多々ありますが、言葉のような流通のしかたはしません。言葉は、それが事物であれ感情であれ概念であれ何かを指し示すように見えます。例えば、「いぬ」という言葉で、私は、現実の隣のポチだったり、動物図鑑の犬という種だったりのある生き物を連想します。一見それらは不可分にむすびついているようにも見えます。
(注)この言葉についての議論は、言葉というものがそういうものだ、ということではなく、一見そう見えるということです。言葉は決してある動物を犬と名付けるだけのものではありません。
音楽には、こういうことは考えられないと思います。ある音形があるものを指す、ということが厳然とルールになっている、などということは聞いたことがありません。しかし音楽は言葉では表わせないもの、例えば感情等を伝えるではないかという反論がおこりそうです。たしかに、この音楽は深い悲哀の情に充ちているとか、あるいは生命を躍動させるような歓喜を謳いあげている、などという形容を用い、一定の特殊化された感情を音楽が表わし聴き手に伝えていると見做されているように見受けられます。また、短音階や短調は何か悲しい感情を表わすものと受け取られてもいるようです。しかしだからと言って音楽が「悲しい」という感情を表わし伝えるものだ、つまりは伝達の手段、コミュニケイションの道具だ、と言ってしまってよいものでしょうか。「悲しい」を伝えるのなら、何もまわりくどい音楽などというものに頼ったりせず、直接「私は悲しい」と言えば、それで終わりだと思うのですが。それ以上に、現実の日常生活で感じる喜怒哀楽というような個別に区分整理された感情は、あくまで言葉という関係の世界の中でのものだと思うのです。つまり、元々「悲しい」という感情があって、それを言葉で「悲しい」と名付けたのではなく、「悲しい」ということばが、ある種の感情か気分を「悲しい」という視点で異質に思われる感情か気分から区別したものです。「悲しい」というのは、書店の本棚という感情気分から言葉という私の好みで取り出した数冊の本というわけなのです。ですから「悲しい」はあくまでも言葉であってその以外ではないのです。日常の言葉の中で生活している私にとっては個別の感情は言葉の関係の中で区分されているものです。ですから私が音楽を聴いて、ある個々の感情を感じるのは、音楽がそれを表わし伝えているからではなく、音楽が聴き手である私に働きかける一種の効果・作用であると考えられます。つまり、音楽に「悲しい」感情を感じるというのは、あくまでも音楽を聴く際の随伴現象なのだと言うことができると思います。
音楽の意味とは、音楽という閉じた体系の中での関係において成立するものだと思います。つまり、音楽外のあるもの(言葉によってあらわされたもの)を指し示すために、ある音形が存在するというのではないのです。その反対に、ある音形があって、それにより表わされるものが初めて生まれるのです。つまり、音楽自体が意味であって、また音のあらわれでもあるのです。この両者が表裏一体となって初めて音楽は成立するものと思います。ことば、ある感情気分の中から「悲しい」という言葉のあらわれをもって「悲しい」にあらわされる意味を分節区別したように、音楽もある音形をもって分節区分をすることにより意味を生じさせるのです。但し、だからち言って、聴き手である私がその音形と分節区分された気分感情を必然的なものとして結び付けなければならないか、というとそんな必然性はないはずです。つまり、ある音形とそれが分節区分したものの間に、両者を結びつける必然性はない、自由であるはずだと思うのです。これについては、後の章で詳しく議論したいと思います。
②表現と意味
前章の内容から音楽が表現と意味を同時に有する二重の存在であることがわかっていただけたかと思います。音楽を一枚の紙に例えれば、表現と意味はその表と裏と言うことができます。もしこの紙の表に鋏を入れたとすると、表のみならず裏も切れてしまいます。 音楽において、表現と意味は相互依存の関係にあります。両者それぞれがお互いの存在を前提としているのです。前のところで、ピアニストがピアノを弾いたのと、猫が鍵盤の上を駆け回ったものとの違いを意味の有無で考えました。つまりこの両者が音の響きにおいて、全く同じだったとして、ピアニストの演奏を音楽と見做すのは、その響きに意味があると見做すからです。そしてその限りにおいてピアノの響きは音楽の表現であるわけです。ですから、表現の成立には意味の存在が前提されていると考えられます。また他方、音楽の意味は表現によって区分整理され、音楽という体系に位置付けられたものなのですから、意味は表現なしには成立しえませせん。但し、だからと言って、表現と意味が対称的とはかぎりません。音楽では意味に対し表現が優位に立つと考えられます。これは音楽というものが感覚に訴えるものであると考えるからです。つまり、一つの音形をピアノで弾く場合、もしこの音形とその意味が不可分で両者が対等なら、音形の意味がひとつなのだからそれをレガートで弾いてもスタカートでも同じことになはずです。ところが、レガートで弾くか、スタカートで弾くかでは、音楽では全然違うものになってしまうのです。 そして当面、表現と意味は不分離です。
最後に、表現は単なる物理的な音ではないし、意味は音楽とは別個に存在する音楽外の現実を指すのではないということです。これを「うつわ」と「なかみ」に言い換えれば、表現は既成の「なかみ」を盛る「うつわ」ではなく、意味にしても「うつわ」という鋳型に流し込む「なかみ」に終わるものではありません。
③かたちと実質
表現と意味の表裏一体となった音楽とは、砂浜にひろげられた網のようなものです。この網次第で、砂浜には様々な模様が描かれることになります。そしてこの網自体は実体として存在するものではありません。この網をつくりひろげたのは人間ということができます。この網の目の織り成すのをかたちと呼び、かたちに対立するものとして実質というものを措くことにします。つまり、音楽の本質はかたちにあると言ってもよいと思います。 前の章で、音楽は感覚に訴えるものであるが故に、その表現が意味より優位に立つと言いました。例えば、ある音形をレガートで弾くか、スタカートで弾くかによって、その意味が変わってくるというわけです。そうなると、元の音形そのものはいったいどうなるのでしょうか。別々のものになってしまうのでしょうか。例えば、変奏曲において、聴き手は次々に変奏によって形を変えて現われるテーマを、形が変わっても同じものとして捉えます。この二つの例は一見矛盾するような様相を呈しています。しかし、これは同一性の問題なのです。
(注)同一性というと耳慣れないかもしれません。しかし、例えばアイデンテティの訳が自己(自我)同一性というと少しは身近に感じられるのではないでしょうか。ある人に対するのと、別の人に対するのでは、私は違う顔を示します。しかし、その私はひとつなので、それらの違う私に共通する同一のものがあるはずです。同一性をそういうものと受け取って下さい。かと言って、私は音楽を聴くことに、自分を見つけるということを重ねるような真摯な人間ではありません。
同一性には、実は二種類考えられるのです。ひとつは実質のレヴェル、もう一つはかたちのレヴェルです。このことは、次のような例から説明することにします。A氏が昨日、東京駅午前九時発の「ひかり」を利用したという話を聞いたB氏が、「私も先月同じ列車を利用した」と答え、C氏が「私も昨日、Aさんと同じ列車に乗っていた」と言ったとします。ここで、B氏とC氏は、それぞれ「同じ列車」と言ったわけですが、この両者の内容は、その文脈から言って異なるものであることは、明らかだろうと思います。B氏の言う「同じ列車」は、列車の出発時刻、発着駅等の視点からみたもの、つまり時刻表上での同一性ということができます。これに対し、C氏の言う「同じ列車」は物理的な車輌、同じ乗務員という視点の同一性ということができます。この時、B氏の視点はかたちの視点C氏の視点は実質の視点と言うことができます。つまり「ひかり」という列車を構成しているのは、車輌の数とか素材、乗務員の構成や乗客の数といった実質ではなく発車時刻、発着駅、道程といった条件にほかならないのです。つまり、その「ひかり」を他の列車から区別する一切の差異、対立関係が「ひかり」の構成物なのです。
音楽の表現とは、個々の音の物理的な鳴り響きといった実質ではないのです。もしそうならば、音楽と自動車のクラクションの音にかわりはないことになってしまいます。音楽は、一種の体系であると前のところで述べましたが、表現の面でもそれが当て嵌まるのです。音楽の表現において、かたちが本質的な構成をしているが、実質がそれを支えているわけです。
次に、音楽の意味の面を見てみましょう。意味というものが、これまでの説明からかたちによって構成されていることは言うまでもないことだと思います。つまり、音楽の意味というものは実体として在るのではなく、ある視点によって切り取られ区分整理された一種の現象であるわけです。
とすれば、意味の面での実質はどういうものと考えられるのでしょうか。比喩的にいえば、音楽の外に存在する人間によって体験可能なあらゆるものとでも言ったらよいでしょうか。これまで、音楽とは音楽以外のものを表わし、伝える手段ではない、と繰り返し述べてきました。それと矛盾するようなことがここに出て来てしまいました。これは、音楽以前にその対象となる現実が存在するのか、そして、その存在するとはどのようなことなのか、ということです。意味というからには、その指し示す対象を当然想定してしまいます。例えば、聴き手は音楽に、それが何を表わしているのか聴き取ろうとします。この対象は音楽外の現実と言ってもいいのでしょうか。これに対して、私は「否」と答える立場にあるのは、これまでの文章から明白です。仮に、作曲者や演奏家の「思い」とか「メッセージ」とか「感情」等を伝えようとするなら、言葉というより直接的なものがあるわけです。ウィアーザワールドのメッセージは専ら言葉、即ち歌詞のみによるものです。このメッセージの意味は言葉によって分節整理された言語の現実ということができます。音楽は、この言語と同じように、言語とは別個に音楽の現実を分節整理するのです。つまり、音楽以前に存在する現実とは、音楽というかたちの網の目をかけられる前の砂浜のようなものです。私の前のテーブルの上に、一つのコップがあるとします。このコップを私は、一杯の水を飲む道具としてみなす、つまり意味を与えることによって、はじめて単なるガラスの塊がコップとして私との間に関係が生じるわけです。私がコップを認識するのはその限りにおいてです。ここで、新たにかたちに対立する実質の性格が問題となってきました。表現や意味が、幾分かの留保を含むとはいえ、本質的にかたちであると言う場合にしても、現実に音楽が生ずる時には必ず、それぞれの実質に支えられていなければならないはずです。実際の個別の演奏なり作品なりが存在しているのは、実際の鳴り響きですし、それは音楽という関係において意味づけられた実質です。とすれば、実質というのは、表現や意味というかたちによって分節、区分整理されたものなりか、あるいはまた、音楽以前に存在する現実のことなのか。実質というものが両義的な性格を有していることになります。
ここで、実質をかたちの対立概念とするならば、当然前者の性格のみをとることになるはずです。そこで、とり残された後者を、取りあえず仮に素材とよぶことにします。
これまで議論はちょっと煩雑で、読んでいて混乱してしまったかもしれません。そこでここで整理してモデルを考えましょう。表現と意味には、かたちと実質という二項対立が実は、かたちと実質、そしてそれらと素材という二重の二項対立があったのです。表現の素材とは、かたちとは無関係の、音楽とは別個の単なる物質としての音です。これに対して、表現の実質は表現のかたちがあってはじめて存在する音楽の音、と対比的に言うことができます。これと同様に、意味の素材は、さきほども言ったように、音楽以前に存在する現実です。そして、これに対し意味の実質とは素材がかたちという網の目によって分節整理された、つまり意味付けされたものです。ここでの三者の関係は、素材はかたちによって分節整理される以前の、謂わば混沌として捉えられるものです。この素材を表現と意味というかたちを通して分節整理したものが実質です。音楽の聴き手にとって、聴き取られるのは、表現と意味が一枚の紙の裏表のように不分離一体の状態のもの、即ち表現イコール意味が、聴き手の心の中に残す刻印としてなのです。
こう考えると、実質というのは聴き手がある視点で素材から切り取ったものだと言うことができます。ここでいう視点とは、かたちの網の目をかたちづくるものに他なりません。つまり音楽という体系(差異の関係)は、私という聴き手との関係によって意味を付与されて、はじめて存在しうるわけです。この意味で、音楽は聴き手である人間がつくる関係に先立っては存在しえないのです。音楽というものは、聴き手である私にとって、意味が付与されない限り、ただの音でしかないのです。聴き手である私は、素材である音に働きかけて、これに意味を付与する、つまりは素材を実質化する、それが音楽を聴くという行為の一環でもあるわけです。ここで、聴き手が素材に意味を付与すると言っても、それは勝手気ままに行なわれるというのではありません。その行為は他方で、意味を持つ音楽に規制されるものでもあるわけで。聴き手である私の意識もまた、一種の意味を与えられることになります。こうモデル化してみると、かたちというのは、音楽という閉じた体系の中での表現と意味との相互依存関係を形成するばかりでなく、聴き手が音楽を聴くという関係をも形成することがわかります。
④音楽は自由だについて
かなり前ですが①の最後のところで少し触れたことについて、ここで考えてみたいと思います。自由というと、勝手気儘に音楽を聴いていい、というように受け取られるかもしれません。それでは前章の最後で述べたことと矛盾します。しかしここではまず、二つの次元で考えてみます。
第一の自由は表現の自由とも言えるもので、表現と意味の間にみられるものです。これは①のところで述べたことです。つまり、ある音形がある意味を分節し形成したとして、この意味の内容とその音形の間には、必然的なつながりはないということです。つまり、表現と意味は表裏一体といいながら両者の間には、論理的な必然性などないのです。ではどうして、表現と意味は表裏一体といったことと矛盾しないのでしょうか。自由というのは、個人の勝手気儘というのではなく、例えば自然法則のように所与の必然ではないということです。表現と意味の結びつきは、人間の社会的営みの中で積み重ねられた文化によるものなのです。ですから逆説的な言い方ですが、表現と意味の絆の必然は、それが自由であるがゆえなのです。
これに対して、第二の自由は、価値の自由とでも言うべきものです。前のⅢのところで、音楽の個々の音あるいは音形の存在価値は全体としての音楽との関係や他の音や音形との関係から決定されることをお話しました。つまり、ある音形が深遠な思想を表わしているというような音楽以外のところに存在する価値が反映していたり、音形そのものに個別絶対の価値があると言ったことはないわけです。それは、ひとつの自立した閉じた体系の中での相対的なものです。ですから同じ音形を別の音楽作品の中で用いた場合、その音形の価値は全く違ってくると言えるのです。また、音楽というものは、それに関わる人間の視点に依存するということを前章で明らかにしましたが、価値を決定する体系自体も、最終的には視点に左右されるということになります。このように、音の存在価値について、自然法則のような必然的なルールはないのです。むしろ、聴き手である私の視点のほうが音楽という体系によって規制されていることも考えられ、私は音楽外の現実を音楽を通して捉えているとも言えるのです。これが、価値の自由です。
ここでの二つの次元での自由についてです。表現と意味のむすびつきによって表わされたものは、元々音楽という体系の網をかけることによって現われたものなのです。そこで表現と意味というのは、あくまでも音楽という体系の中でのこととなります。それゆえ、表現の自由は価値の自由の結果的産物と言うことができます。この第二の自由が、価値の恣意性ということであるなら、価値を生ぜしめる関係としてのタテとヨコの関係のいずれともかかわっているということは、当然言えることです。
ところで、ここでの自由というのは、個人の勝手気儘ではなく、謂わば人間のつくる社会でのルールみたいな人工的な、もっと端的に言えば便宜的なものだということは前に述べました。しかし、これがルールをつくった社会の中で、個人にとって、それがつくられたものではなく、元からあった絶対的必然的なものとして感じられる、という転倒した事態が起こります。ルールがつくられた当初の生き生きとしたところを失い、惰性と化して、個人には拘束としか感じられなくなる。個人の意識の中で、ある音や音形と、特定の感情やイメージが分かち難く結び付いてしまっている。本来相互的な、表現と意味がそれぞれ独立して実体を持って存在しているかのように受け取られてしまう。それだけならまだしも、音楽という体系が視点によりかたちづくられたものではなく、あたかも実体があるかのように受け取られてしまうということがあります。
これは、本来なら個人の内発的な活動であるべきものが、押しつけられたもの、自分とは無縁な必然の世界にがんじがらめに閉じこめられたものとなってしまったことによると言えます。例えば、音楽を作曲家や演奏家の具体的な感情や思想を伝達する手段と見做してしまう立場などは、そう言えるのではないでしょうか。もっと卑近な例で言えば、解説書に書かれていることを、唯一無二金科玉条の如くみなして、その通りに音楽を聴こうとする。それ以外を間違いとするような立場がてはまると思います。